Asagaya Parkside Gallerie 記憶写真

「大当たり(1)」

家から小学校まで3キロの距離があった。子供の足で50分。小学生だった私に
は、この道のりは無限大に思え苦難がつきまとった。
苦難は三つあった。
まずは便意の襲来。これは大変だ。”小”なら道端で平気だが、”大”となるとそう
はいかない。学校までの道程はすべからく田圃で、人目につかない所などない。
集落に入れば家も店もあるが、子供の私が頼れるような家(うち)は皆無だ。特に
人一倍腹のゆるかった私は、毎日この恐怖に慄いていた。どんなに朝すませて
行っても、いつどこでおとずれるか判らないのだ。学校の心配事のほとんどは、
この一点にあったといっていい。宿題をやってない、嫌いな跳び箱があるなどと
いったことはこれに比べたら些細なことだつた。(現に私は今もこの体質を持ち
続けていて、これまでに数十各国を旅したが、現地での不安は言葉でもなく、
治安でもなくまさにこれなのだ。)小学校に入学したばかりの時に見た光景は今で
も私の頭を離れない。授業中に外で声がして、見ると別の学級の男子が尻をむき
出しのまま向いの教室の板壁にしがみつき、蟹這いにそろりそろりと歩いている。
手にはズボンと下着を持っている。女の先生が離れた洗い場から何か叫んで
いるが、手にした下着を見れば起きた事がらは一年生でも分かった。私は、
「ああ、わしでのうてよかったぁ」と安堵した。同時に、これからの学校の毎日を
思うと身震いが出た。
「もしあれがわしじゃったら、皆からずーと言われてどげんして(どのようにして)
学校に行きゃあえんじゃろう」
それが47年経った今も私に覚えられているのだから、やはりその恐怖の所以た
るや正しかったのだ。
二つ目の苦難。それは、喉の渇きだ。とにかく子供の頃はのどが渇いた。夏など
てき面である。百メートルも歩いたら喉がからからで、また飲んでもしばらく歩くと
またからからになる。おのずと、どこで給水が得られるかを知ることが、無事に
家まで辿り着く必須条件となつた。私は低学年の時は学校から10分程歩いた所
の農協の倉庫の水道を利用したが、なにぶんその後が長い。持たないのである。
いっそ道沿いの川の水でも飲もうかという気になるが、さすがに魚が浮いて異臭
を放つことのある川水は飲む勇気はない。(私の田舎では当時イ草を作っていて、
大量の染料や農薬が川に流され酸欠も起きて、鮒や鯉、雷魚といった魚がしょっ
ちゅう川面で死んでいた。特に夏場がひどかった。)
「うう―、水、水、水。水が飲みてえ。水じゃあ」と呪文のように唱え、どうにか家
に辿り着くのが常だった。四年生になってからは状況が変わった。体力がつき
歩くのも速くなった。何より大人に頼める様になった。(便所を借りるのは別だ。)
とにかく、道の上で干乾びている蛙やトカゲと自分も何ら変わらない生き物である
ことを、この苦難は教えてくれた。
そして三番目の苦難。いやこれはむしろ試練と言うべきか。”駄菓子屋”という誘惑
に打ち勝つ為の。学校から家までの道沿いには数軒の駄菓子を置いてある店が
あった。私は友達と必ずそれら数軒を覗いて帰った。あっちにすべきか、こっちに
すべきか、買うべきか、買うべきでないか、葛藤は帰るまで続いた。私の当時
の小遣いは一日5円で、これを超えて渡されることは決してなかった。私は毎日
その5円玉を受けとると
「よーしゃ今日はあそこん店で、ありょう(あれを)買うでえ」と、再び引き戻って
行った。そんな引き戻った店の中に「徳一」という駄菓子屋があった。私が利用
していた店の多くはわらじから油揚げ、時には化粧品まで置いてある“雑貨屋”
であったり“八百屋”であったりしたので、「徳一」という駄菓子中心の店は
子供の間で一目おかれていた。但し、その一目というのは並んでいる品に対して
であって、店の奥に座り、外を睨みつけている店番のおばさんに対してではなか
った。私達はその店番のおばさんを密かに「”徳一”のおにばばぁ」と呼んでいた。
「徳一」のおにばばぁが”おにばばぁ”と呼ばれる訳は例えばこんなふうだった。
友達と外から店を覗いていると、
「あんたらあどこの子でえ、もうしっしっ」と蠅のように追い立てられ、
中で品を見比べていると、
「汚ねえ手でいじって、ちゃんと金持っとんけえ」と言われ、
極めつけは、
「買わんのにずるずるしとんなら、先生に言いつけるでえ」と脅される。
そして、そんな「徳一」である日私は忘れもしない試練の買い物をした。

(次回に続く)

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